最初に住んだアパートの話


たまに記憶を思い出して昔のことを書きたくなるので、呆けないうちに書いておこう。私はいたって普通の人なので大した話じゃありません。

 

1985年かな、幾つか大学に合格して初めて東京に住むことになったわけだけど、住むところを決めなきゃいけないよね。

うちの父親は職人気質だし、ずっと同じ場所に住んでいたしで、そういうのは事情が分からないわけ。自分が中学生になる頃に親は家を建てたんだが、土地も貸家だった場所そのままに大家から借りて建てている。不動産屋で探すとかそういうのはあまりやりたくないわけ。

あと、なぜか田舎の人は電車にも乗りたくない。何でも自分の車でやろうとする。なので両親と私の三人で地元から車で東京に家探しに出てきた。結局、高田馬場駅前のホテルに一泊か二泊して部屋を決め、地元に戻ったと思う。

 

受験の時に私が十日くらい泊まらせてもらった親戚の家が和光市にあったんだけどね。母の姉で私からしたら伯母の家だ。伯父の仕事の都合でその時は埼玉にいたのだが、本来は穂高に家がある。伯父も私によくしてくれました。友人と歩いていてたまたま新宿かどこかで偶然に会って、飯を食べさせてもらった思い出があります。

部屋探しは、またその伯父さんに世話になっても良かったと思うのですが、当時の私の家は旅行なんて滅多にない機会なので、親がついでに東京に遊びに来たがったのよね。

受験で伯父さんの家に世話になっていた何日か、ずっと家にいるのもあれなので、受験日でない日の昼は和光市駅近くの図書館に行っていた記憶があるなあ。場所や建物の記憶は全く残っていませんが。

 

話を戻すと、それで部屋探しは不動産屋に行かずに親子でいきなり大学に行ったわけ。速攻で決めたかったし、大学で紹介している部屋なら間違いないだろうと親は考えたと思う。大学も見学したかったんだろうな。

まあそれで学生課かどこか行ったら、二つしか残ってなかった。大学は超マンモスではないけど、日本人なら誰でも知っている、そんなに人数が少ない大学ではないよ。でも二件だけ。探すのが遅かったのかもしれない。

でも違うかも。家賃の希望を伝えたらその範囲内はそれしか残ってなかったのかも。その辺ははっきりとした記憶がないけど、たぶん家賃が高い物件なら他にもあったのかもしれません。

 

どういう経緯でアパートを決めたかは忘れましたが、実際に住んだ場所は、東武東上線の北池袋から歩いて5分くらいのところ。今は知らないけど当時はほぼ何もない駅で、駅近くの喫茶店だか洋食屋だかでハンバーグ定食450円みたいなのを夕方によく食べました。客が他にいなくて居心地がよかった。

もう一つ学生課で紹介された部屋は、はっきりとは覚えてないので違うかもしれないけど、西武池袋線の東長崎だったかと思う。違うかな、でもその辺。

今思えば、東長崎の方が廊下や部屋の感じが一般的な安アパートだったと思う。後日、先輩や友人の部屋に遊びに行くと東長崎の部屋と似たような感じだった。半畳くらいの小さい共同玄関があって、廊下は普通の板張り、各部屋に南京錠で鍵をかけるというやつ。トイレは共同で一つか二つだった。当然、風呂は無い。

 

私が住んだ北池袋の部屋は、トイレが共同なのは同じだけど、廊下の床が板じゃなくてビルの床みたいな?固いやつ。深緑のような色で雰囲気も暗かった。なぜそちらになったかわからんけど、大学に通うのに近い感じがしたからかも。

 

玄関は下宿屋みたいな雰囲気があった。そこそこ広くて共同のピンク電話が置いてあり、何度か自分でもそこから電話したことはある。そのピンク電話にもかかってくるので取り次いだこともある。私の部屋が玄関に近かったのでなぜか出る羽目になって、「〇〇号室の人、電話ですよ」と見たこともない他の部屋の住人を呼び出しに行っていた。今では考えられませんが(笑)

共同トイレは和式の水洗でトイレットペーパーの設置はなく、トイレ紙のロールを毎回自分で持っていく方式でした(大学ではキャンプするサークルに所属していて、キャンプ場でも同様でしたw) でもまだ地元ではあまり水洗が普及しておらず、今では劣悪と感じる様な環境のそのトイレですが、水洗なだけで少し進んでいるような気はしました。

 

部屋は畳で汚い絨毯が敷いてあり、室内には歯が磨ける程度のタイル張りの小さい流しがありました。ガスは小さな丸い一口コンロがあった気もするがなかった気もする。ただお湯は電気ポットで沸かしてました。エンジ色の電気ポットは記憶にあり、それでラーメンを茹でたこともあるw 窓はアルミのサッシでなく木枠だったよ。しっかり閉まらない感じの。(当時でも古かった)

4畳半で2万千5百円。家賃は毎月大家に手渡しで、収めた証拠として手帳みたいなのに印鑑を押してもらっていた。光熱費はどうやっていたのか記憶にない。

 

困ったのは電気のブレーカーが各部屋じゃなくて何件かでまとめてヒューズになっていたこと。なので自分で気を付けていても誰かが使いすぎるとヒューズが飛ぶ。

案の定、冬にヒューズが飛んで(要はブレーカーが落ちて電気が使えない状態)、ぞろぞろと人が部屋から出てきたことが何度かあった。ブレーカーはレバーを上げればいいけどヒューズは交換しないといけないので、大家の家に呼びに行って変えてもらった記憶がある。

暖房はこたつと、上下に300Wのヒーターが付いているよくある電気ストーブを使っていましたが、その理由でストーブはあまり使えなかった。こたつはしっかり使っていたけど。

しかし共同電話やヒューズ! 何という面倒くさい時代だったんだよ。なんだかんだ言うけども、今の方がすげえ楽なんですよ。

 

虫は嫌いですが、部屋の中ではGは見かけず、下駄箱やアパート共同のごみ置き場にいた雰囲気があったなあ。まだあの頃はそんなに恐怖感はなかった。北池袋には一年住んだだけで引っ越しましたが、次の部屋の方がGはたくさんいました。そっちでは常にGホイホイに数匹溜まってました。

まあ最初の一人暮らしですよね。隣の芝生は青く見えるじゃないけど、同家賃帯なら他の友人や先輩の家の方が多少マシな気がしたなあ。なんか私のアパートは酷かった気がするけどw

 

これは誰にも話したことがなかったが、実は一度、上で書いた玄関の共同電話の前で冬に倒れたことがある。子供の頃の注射以外では、それが人生で初めて倒れた経験かもしれない。電話していて知らない間に意識を失い、気が付くと横になっていた。アパートの他の部屋の住人が「今、倒れていたぞ。大丈夫か」と話しかけてくれたのを覚えている。

痛かった記憶は残ってないし、怪我もせず。頭は多分床にぶつけているはずですが、倒れる時は気を失っているので記憶は無い。

電話の内容で追い詰められて緊張したのと、冬で寒かったのが原因だと思います。後々の検査で脳に異常はなかったので、精神的なものと寒くて実際に血の巡りが悪かったのが相まったのだと今では思ってるけど(迷走神経反射のあれ)、その時は電話の相手もびっくりしていたはず。

私の応答がなかったのは数十秒から一分くらいだと言われたような記憶があるので、電話は繋がったままだったのかな。いや、それはアパートの住人に言われたのかな? でも電話をかけ直したような記憶もないし、その後の経験だと倒れてから復帰するのに数分はかかるけどな。

その後、(確か大学二年目に入った時期のことだからこちらの方が時系列的には後だな)まだ学生の頃に一度中華料理屋で飯を食べていて倒れ、顎と瞼を切って救急車を呼ばれたり、大学中退後に東京で少し働いた時に気持ちが悪くなって気を失う倒れ癖が出てしまうのだが、この最初のアパートでのこれが発端だった気がする。

 

北池袋時代の思い出としては、池袋西武の本屋によく行ってました。筒井康隆のまだ読んでない本を探しては買って読んでました。ネットがないので自分で探し歩くか人に聞かないと、古本屋の場所とかそういうものの所在がわからなかったんだよな。

アパートからは池袋まで歩いて行けたんだけど、定期を持っていたので歩いたことは数回しかなかったな。サークルの人と終電過ぎるまでファミレスにいて帰ったとかくらい。

池袋のバッティングセンターにもたまに行きました。あとは雀球なんたらというゲーセンでゼビウスをやりこんだのは覚えてる。ビッグカメラもよくうろうろした。丸井で初めて何回払いかでピーコートを買ったな(笑)

あ、あと部屋探し時には親とサンシャイン60に登って、その場で写した写真を布に印刷するお土産のカレンダーを作って、それは実家の壁に何年か前まで貼ってあった。

 

今、北池袋駅周辺をグーグルマップを見たら、当時のアパートの場所は分かりました。別のアパートになっている。周囲に何があったかとかはほとんど覚えてないんだが、当時はコンビニが近所になくて、ミニストップが8分くらい歩いた場所にあったのよ。夜に行ったときに人生で初めて職務質問をされました。

銭湯はアパートから駅を超えて少し行ったところと、駅からアパートを超えてしばらく行ったところにあった。距離は駅を超えた方が近かった。遠い方の銭湯では初めて水虫をうつされた。アジアや中東の感じの人も銭湯にいて、当時は外国人というものを田舎ではほぼ見なかったので、初めて世界を日常で感じましたw(今はアジア系も白人も観光客として地元にすげえいる)

もちろん洗濯はコインランドリーで週一くらい。あと記憶にあるのは、丁度丁字路の前の部屋だったのでどこかのおばさん連中がそこで立ち話をしてから分かれて帰るわけ。そういうどうでもいいことを覚えているんだよねえ。

 

前にブログで、何年か前に東京で住んでいたアパートを見に行ったのを書いたことがあるけど、それは引っ越した先の二件めの話です。より記憶があるのは(といっても大してないけど)そちらの二件目の部屋ですね。北池袋は一年だけど、二件目は三年近くいたので。

 

今の時期になると思い出しますが、部屋探しに行った時は大学の門の前で桜と記念写真を撮り(入学式じゃないから桜なんてやはりギリのタイミングで部屋探しに行ったんだよな)、親も誇らしそうで、ある意味ではあれが人生のピークだった気がしますw

その後、留年し中退し、働けばすぐに精神的に病んで途方に暮れた。100%じゃないにしてもある程度は復活してだましだまし50歳近くまで働いたし、今じゃ悠々自適なので今が一番と言えば個人的にはそうなんだけど、周囲の期待に沿えたのはあの頃まで。

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