前のブログの時も書いたけど不安神経症の経緯をまた書きたくなったっす。関係者以外は興味ないでしょうけど。
5千文字以上あり、そこそこ長いよ(笑) 暇で調子いいときに読んでくれ。
初めは頭が痛くなった。
痛いといっても普通のズキズキとかではなく、ふわっと締め付けられるというか、どうしようもない表現できないような感じでした。今のようにネットで情報も調べることはできないし、脳神経外科で脳波の検査もしてみたのだけど。
初めに頭が変な感覚になった頃は東京にいたよ。
大学を中退して一旦地元に戻って職探しをしてたんだけど、これというのが見つからず未経験でもプログラマとして就職できる東京に再度出てきていた。
話は脱線しますが、10万円くらいあったので(少な)、東京で部屋探しをしてみたのよ。前に住んでいた所なら買い物する場所がわかって戸惑わないし、就職目的なのでとりあえず知っている場所近辺で探してみました。
(その頃はマップアプリとかないので、人に訊かないとコンビニや銭湯などの場所がわからなかったんすよ)
不動産屋で紹介されたボロい2万円ちょいのアパートに、多少悩んだものの嫌なら引っ越し代が貯まったらまた引っ越せばいいかと決めた後、電車に乗ったら大学時代の友達に偶然会った。
そんなに親しくなかったんだけど(笑)、一晩泊めてもらって宿代が助かった思い出がある。井の頭線沿線のアパートだったな。駅は覚えてない。
泊まる場所だって、今のようにネットで探せないし、ネットカフェもまだ無かったと思うし、安く泊まれるあてはなかったから渡りに船でした。
もちろん携帯もないから、電話帳でビジネスホテルに公衆電話から予約の電話をするとか、駅前で目についたビジネスホテルに飛び込むとか、そんな手段しか思いつきませんでしたよ。学生時代にファミレスで徹夜はあったのでそれでも良かったか。
仲が良いやつでアパート住みの人が少なかったな。サークルの飲み会後はオレのアパートに泊まっていたくらいだから。
頭が痛くなった話に戻ります。
痛いと表現してますが、ふわっと変な感覚がありました。締め付けられる感じがするのだけど、自分じゃないような感じもある。そわそわして落ち着かない感じ。
先ずは住んでいたアパートの近所の医院に行ってみた。
仕事の方だけど、会社自体は渋谷にあったんだが、別の大規模な工場に席があり、そこに毎日通っていた。「派遣じゃない、席を置かせてもらっているだけだ」と言うんだが、そこに通うことは変わりないので自分にとってはどっちでも一緒でした。でも通勤が都心と反対方向になったので、電車が空いていて実は助かったのだ。
当時は開発するunixの端末が常時使えるわけじゃなく、空く時間を待って紙に書いてコーディングしていたんすよ。
冷房がキツくてよくココアを自販機で買って飲んでいた。長袖のワイシャツを着ていたけど、そこで調子を崩したのかもしれない。未だに冷房が苦手な所以。
そこに通っていた頃に、先ず、社員食堂でカレーを食べたときに気持ちが悪くなった。軽い吐き気のような。体育館みたいな大きな社員食堂でいつも落ち着かない感じはしていたのよ。
それで学生時代に一度倒れたことがあったので、すぐ同じだと感じ、気を失う前に床に横になった。汗びっしょりになったが数分で回復した。
思い起こせば小学生の低学年くらいの頃に注射で倒れたことがありました。(学校で並ばされて端からバシバシ注射した時代があったんですよ)
今の知識だと「血管迷走神経反射」での失神というのだと思うのだけど、中高生の時は起こった記憶がなく忘れていて、それが大学時代に一度起こり、社員食堂でまた起こったということかな。
この「血管迷走神経反射」というのはよくあり、健康診断の採血や歯医者で麻酔をすると気持ち悪くなる人がいるようですが(私も当然なる)、多分それです。
意識を失っても数十秒とか長くても数分で、それ自体は倒れたときに頭を打たなければ特に問題は無いようです。
多分ですが、毎日のように採血されれば慣れて大丈夫になるかもしれません。ただしばらくやらないと元に戻るんじゃないかな。この部分は想像ですが。
学生時代は知らずに、気持ち悪くなったときにトイレに行こうとしてストーンと倒れ、まぶたと顎を数針縫わなければいけませんでした。でも社食では異常を感じたので横になった。冷や汗はかくものの、横になれば意識は失わないです。
ほんで、それから数週間後、また同じ事が起こりました。
何を食べていたかちょっと思い出せませんが、会社の先輩も前回と同じなので二度目はさほど驚かず。調子悪いのか?くらいでした。騒がれるのもあれだし。
その倒れること自体はさほど問題があるわけじゃないです。
多分、それからしばらく(数ヶ月以内かな)してだと思うけど、最初に書いたように頭が痛くなったというか、異変を感じたのよ。なので、社員食堂で気持ちが悪くなった経験が、また起こるのではないかという心配や不安を引き起こし、それが直接の原因だと考えています。
また脱線していましたが、先ずはアパートの近所の医院に行きました。
「緊張性頭痛」だという話で、確かに風呂に入って温まったりすると、一時的に改善されていました。首の後ろ側が固まった感じで、未だにその感覚が出てくると首を揉んでいます。
そこで薬をもらってしばらく飲んだと思いますが、会社を休みがちになってしまいました。
電車に乗っても数駅で降りずにいられないとか。その後、もう会社へも行けずという状態になって、これはやばい、段々酷くなってきたなと感じました。
それで都立の大きい病院に行ってみるも特に進展はなし。
今の知識でいうと社会不安障害のような症状だったと思います。パニック障害の発作というのもあるかもですが、死んでしまうかもみたいなそんなに強い不安感はなかった。逃げ出したいような感覚がありました。
電車も各停ならなんとか耐えられますが、準急や特急のようにしばらく扉が開かないのはダメ。各停も次で降りたい、次で降りたいと思いながら我慢しつつ目的地まで行くという感じ。都会ですぐに電車が来るので実際に降りたこともありました。
他の症状としてはビルのような大きな建物がダメで、中に入るとすぐ出たくなります。頭の締め付けが強くなる感じだったかな。レジに並ぶときとかもダメだった気がする。
自分の意志でどこかに行けない、その場所にいなくてはならない、そういった状況がダメだった気がします。
(今じゃ飛行機も乗れるしありがたいっす。ちなみに初めての飛行機は27、8くらいだったかな、仕事で羽田→千歳でした。冬でした。札幌の地下鉄にも乗ったけど、その区間や泊まったホテルとか全く記憶になし(笑)帰りは羽田までの航空券を松本空港行きに変えてもらった覚えがあります。あの頃は同じ航空会社だったはず)
一度、かなり後になってもう地元で働き始めた頃ですが、過呼吸(後で聞いた。過換気症候群というらしい)から手足がカチカチに固まって自分の意志で体を動かせなくなったこともありました。横になって意識は妙にクリアーで、この固まった状態でずっといるのかと思いました。もしかしたら死んだかとも思ったけど、あれには驚きました。
当時はまだ実家にいて、実は救急車を呼びました。隊員が来て対処してくれ数分で体が緩み回復したのですが、過呼吸になった時は紙袋などを口と鼻に当て呼吸をするという方法があると教わりました。酸素を少なめにするということですが、その後、緊張したような状態で手が痺れるときは過呼吸の可能性があり、ゆっくり息をするように心がけてます。
(*どこそこを切ったとかじゃないので知っていれば対処できるんですよね。でも知識がないと驚いてしまいます。大昔に聞いたことなので間違ったり勘違いあればスマソ。ネットをみると紙袋と口に隙間など空けないと二酸化炭素が増えすぎて危険とも書いてある)
話を戻すと、そんな状態なので仕事には行けず、恥ずかしながら最終的には親が東京まで車で迎えに来てくれました。いつもは特急電車で地元に帰りますが、乗っていられないかもしれないと考えたか、荷物もあったので迎えに行くよという話になったのだと思います。
しばらく会社勤めはしていたので引越代金くらいはあったのですが、自分ではどうしようもなくなりました。そういう病気の知識はないし、今のようにネットもないので見当もつかずという状態。周りに知識がある人もいないし、素直に医者に行くくらいですね。
地元に戻って先ずは脳波を調べて見るかということで、最初は親に病院まで付いてきてもらってます。もう23、4くらいの歳なのに、一人で何もできず情けなかった。
家で飯を食べたりは普通にできるのよ。外にも行けましたが買い物も結構つらかった気がする。他人と話すとか、何かの目的を果たしに行くようなことが困難になっていて、頑張れば自力で行けないことはなかったと思いますが、親も心配だったんでしょうね。大きな病院だし、建物がダメというのがあったので。実際に、病院で呼ばれるまで落ち着いていられずにかなりウロウロしたしw
それで頭に電極を付け脳波を取り、それは異常なし。CTスキャンてあの頃あったっけ。それもやったと思うけど、やっている瞬間の記憶が無くなってる…。
まあ、それで脳に物理的に何か異常がみられるというのは否定されました。それなら精神的な問題かなと精神科神経科で話をしてみて下さいということになり、長かったけど解決の糸口が見えてきたのだ。
今なら真っ先に考える状態なのかもしれんけど、あの頃は精神的なのってまだあまりなく、すぐには思いつかなかったですよ。知識があれば話はもっと簡単だったはず。
それで医師と話して不安を抑える薬を処方され、数ヶ月後には少しずつまともに生活できるようになってきた。もちろん苦手意識は残り人と話すと汗が出るとかはあったが、まあ普通に生活していけそうでした。
困難なこととして外食だけが残ったのよ(お店や知らない人と食べること) 会社なら弁当を持っていけばいいし、出張で店で食べるときに困ったくらい。泊まりなら夜はコンビニで買ってホテルで食べてた。飲みの誘いは説明して断ってました。
徐々に外食もまったくダメじゃなくなり、少しは喉を通っていく場合も出てきた。
克服はしたかったのよ。
思い出としては、外食の練習だと思い(笑)、とあるラーメン屋に毎週土曜に通ってました。慣れた場所だと食べられるようになってきていて、そこは行けた。ただ米はダメで麺類だけ喉を通る感じの時期があったのです。(客がほとんどいなかったのでその店は今はもうやってませんが。残念)
その後はなぜか大丈夫な店は大丈夫で、基本的に「電車とか建物ダメ」は治っていたので外食については慣れになってきたんだと思います。(その頃は10%の店が大丈夫で、現在は96%が大丈夫という感じ。店というより雰囲気や調子で変な感じになる時がある。でも、それは多かれ少なかれ誰でもあるよね)
そんな感じで一人だと外食も食べられるようになってきて、人とも何度か一緒に出かけると大丈夫になってきた。それなら最初食べなくて変なやつという程度です。緊張すると食べられなくなることは一般にありますよね。その頃は、その強いバージョンみたいな感じ。
薬は退職後もしばらく飲んでいて、だから25年以上ずっと飲んでいたことになりますね。量は減らして朝だけとかにはしてました。
福岡時代に、「飲むのは止めたい」とあっちの医師と相談し(こちらで紹介状を書いてもらっていた)更に少しずつ減らしていきました。私が大丈夫なら飲んでも飲まなくてもいいやつなので。
今は、ネットがあるのでこういう体験談はそれほど貴重なものではないかもしれませんが、もう一度しっかり思い出して書いてみようと思ったのでした。記憶が曖昧になってきて、書く度に微妙に違ったことを書くかもしれないんだよね。
あと、これがなければ人生をもっと積極的にいけたかなあと思うこともあります。私は調子にのりすぎるので抑え気味になって良かったのかも…とも思うけど。まさしく「たられば」で、どうしようもないことです。
30年ほど前のことなので、細かい部分は記憶違いがあるかもしれないです。でも大筋はこんな感じのことがきっかけとなり、最悪の時期は脱したものの、その後長く外食ができない時期が続きました。もともとが食堂で倒れたというきっかけですし。
電車がだめとか、建物に入ると外に出ずにいられないような、そういう一番つらい状態は、不安を抑える薬を飲み始めて数ヶ月から半年くらいである程度は良くなったと思います。(車社会なので電車に乗る機会はなくなった)
その後はもう少ししっかり大丈夫と思える程度になるのを待ち、地元の会社で雇ってもらいました。(これを書いてから前のブログを読むと一年くらいで回復と書いてある。正確な期間はちょっと定かでなくなってるけど、多分その位で働き始めたかも。年金記録をみたら25で地元の会社に入ってる)
変に悪い意味でデリケートなんでしょうね(笑) 私がよく「適当、適当」というのは自分に言い聞かせてます。
今でも外食に苦手意識はあり、札幌に住んだ辺りかその前後から薬を飲んでないので、たまに頭に昔と似た変な感じはあります。
最悪が0で発症前を100とすると、最悪な状態を脱した後は(今も)、感覚的に90くらいな状態だと思います。物理的に頭が変な感じになることはあるけど、それで逃げ出したくなるような感じにはならないです。
発症前の状態に戻らないかなと願ったけど、それでも自分の場合は割と早い段階でほぼ回復できて運が良かった。若い頃と同じように100m走は走れないのだし、まあそれとは違うかもですが、完璧は求めず、今の状態が今の自分としてはそこそこいい状態だと思うしかない。
薬を飲んでいれば全然大丈夫なので、その方がいい感じに過ごせるなら飲んでいた方がいいかなとも思います。飲まないまでも通院はしてみるとか。
まあ医者と話だけしてもしょうがないといえばしょうがないけど。それについてはちょっと悩んでますが、バイトなどは飲まないと耐えられなさそうという問題はある。
長くなりました。最後までどうも。こんな長文を読んでもらったならお礼をいうわ。
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